百体庚申

 遠山地方には至る所に、神社や石仏が建てられています。

これらの神社には、霜月祭で名前の知られた神社もありますが、

その多くが無名のほこら、石仏等であります。

よそから訪れる人が、遠山谷は神さまの里だと言います。

 しかしわたしたちの祖先の人は、もの好きでこれをまつったものではありません。

調べてみますと、そこには悲しいお話がいっぱいあります。

 たとえば、これからお話しする百体庚申もその一つです。

木沢の町をぬけて、昔の秋葉街道をのぼりつめると、小さな峠のような台地があります。

ここから南に向かって行くと合戸峠に出ます。

 百体庚申は、この台地の左の杉の木立の中に建てられております。

ところで百体もあるという庚申は、いずれも遠山川の石にきざんだ、ごくそまつなものです。

 この百体庚申について、むらのお年よりは、こんな風に話してくれました。

ときは、明治年間のことですが、遠山地方に悪いやまいがはやり、たくさんの人びとが亡くな

りました。

相つぐ災害と、はやりやまいにたまりかねたむらの人たちは、庚申を建てて、ここから一歩も

病気が、
むらに入れないようにお祈りしたそうです。

 ここを訪れてみますと、風や雨にさらされた、たくさんの庚申さまは、土にうまったり、

倒れたりして
おりましたが、建てた年号は明治二十九年でした。 

 記録によると、遠山地方は明治二十七年から、三十一年にかけて天然痘(ほうそう)や、

赤痢が
はやり二百八十九名もの人たちが死んでおります。

 悪いやまいを追いはらい、その苦しみからのがれるためには、当時のことですから、むら

のしゅうは
ごりやくのあらたかな神さまや、仏さまにお願いするほかに方法がありませんでした。

 まるで地ごくのような苦しみの中で、むらの人たちはけな気にもともにこれを受けとめ、肉親を

失った悲しみや、いたみをわかち合い、百体庚申の建立となったものと思われます。

 いまは昔にくらべ、医学が進歩して多くの病気がなおるようになりました。

それはたいへんうれしいことですが、ともすると自分のいのち、または他人のいのちへの思いやりの

気持がうすれがちです。 祖先の人たちが建てた、百体庚申を訪れるとき、人間のいのちの大切さを、

あらためて思い知らさ
れます。


 
はりの木島番所